銀座 永井荷風 青空文庫より~②

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昔の街の様子がわかる紀行文を見つけました!
著作権フリーなので、ここで紹介します!

銀座 永井荷風 青空文庫より〜②


 銀座の表通りを去って、いわゆる金春こんぱる横町よこちょうを歩み、両側ともに今では古びて薄暗くなった煉瓦造れんがづくりの長屋を見ると、自分はやはり明治初年における西洋文明輸入の当時を懐しく思返すのである。説明するまでもなく金春の煉瓦造りは、土蔵のように壁塗りになっていて、赤い煉瓦の生地きじを露出させてはいない。家の軒はいずれも長く突きまるい柱に支えられている。今日ではこのアアチの下をば無用の空地くうちにして置くだけの余裕がなくって、戸々ここ勝手かってにこれを改造しあるいは破壊してしまった。しかし当初この煉瓦造を経営した建築者の理想は家並やなみの高さを一致させた上に、家ごとの軒の半円形と円柱との列によって、丁度リボリの街路を見るように、美しいアルカアドの眺めを作らせるつもりであったに違いない。二、三十年ぜんの風流才子は南国風なあの石の柱と軒の弓形アーチとがその蔭なる江戸生粋きっすい格子戸こうしど御神燈ごしんとうとに対して、如何に不思議な新しい調和を作り出したかを必ず知っていた事であろう。
 明治の初年は一方において西洋文明を丁寧に輸入し綺麗に模倣し正直に工風くふうこらした時代である。と同時に、一方においては、徳川幕府の圧迫を脱した江戸芸術の残りの花が、目覚めざましくも一時に二度目の春を見せた時代である。劇壇において芝翫しかん彦三郎ひこさぶろう田之助たのすけの名を挙げ得ると共に文学には黙阿弥もくあみ魯文ろぶん柳北りゅうほくの如き才人が現れ、画界には暁斎ぎょうさい芳年よしとしの名がとどろき渡った。境川さかいがわ陣幕じんまくの如き相撲すもうはそのには一人もない。円朝えんちょうのちに円朝は出なかった。吉原よしわらは大江戸の昔よりも更に一層の繁栄を極め、金瓶大黒きんべいだいこくの三名妓の噂が一世いっせの語り草となった位である。
 両国橋には不朽なる浮世絵の背景がある。柳橋やなぎばしは動しがたい伝説の権威を背負せおっている。それに対して自分はなまめかしい意味においてしん橋の名を思出す時には、いつも明治の初年返咲かえりざきした第二の江戸を追想せねばならぬ。無論、実際よりもなおうるわしくなお立派なものにして憬慕けいぼするのである。

 現代の日本ほど時間の早く経過する国が世界中にあろうか。今過ぎ去ったばかりの昨日きのうの事をも全くちがった時代のように回想しなければならぬ事が沢山にある。有楽座を日本唯一の新しい西洋式の劇場として眺めたのも僅に二、三年間の事に過ぎなかった。われわれが新橋の停車場ていしゃじょうを別れの場所、出発の場所として描写するのも、また僅々四、五年間の事であろう。
 今では日吉町ひよしちょうにプランタンが出来たし、尾張町おわりちょうかどにはカフェエ・ギンザが出来かかっている。また若い文学者間には有名なメイゾン・コオノスが小網町こあみちょう河岸通かしどおりを去って、銀座附近に出て来るのも近いうちだとかいう噂がある。しかしそういう適当な休み場所がまだ出来なかった去年頃まで、自分は友達を待ち合わしたり、あるいは散歩の疲れた足を休めたり、または単に往来ゆききの人の混雑を眺めるためには、新橋停車場内の待合所をえらぶがよいと思っていた。
 その頃には銀座界隈には、己にカフェエや喫茶店やビイヤホオルや新聞縦覧所などいう名前をつけた飲食店は幾軒もあった。けれども、それらはいずれも自分の目的には適しない。一時間ばかりも足を休めて友達とゆっくり話をしようとするには、これまでの習慣で、非常に多く物を食わねばならぬ。ビイル一杯が長くて十五分間、その店のお客たる資格を作るものとすれば、一時間に対して飲めない口にもなお四杯のまんを引かねばならない。然らずば何となく気がいて、出て行けがしにされるようなひがみが起って、どうしても長く腰を落ち付けている事が出来ない。
 これに反して停車場内の待合所は、最も自由で最も居心地よく、いささかの気兼きがねもいらない無類上等の Caf※(アキュートアクセント付きE小文字)カフェエ である。耳の遠い髪の臭い薄ぼんやりしたおんなボオイに、義理一遍のビイルや紅茶を命ずる面倒もなく、一円札に対する剰銭つりせんを五分もかかってもつて来るのに気をいら立てる必要もなく、這入はいりたい時に勝手に這入って、出たい時には勝手に出られる。自分は山の手の書斎の沈静した空気が、時には余りにせつなく自分に対して、休まずに勉強しろ、早く立派なものを書け、むつかしい本を読めというように、心を鞭打つ如く感じさせる折には、なりたけ読みやすい本を手にして、この待合所の大きな皮張かわばり椅子いすに腰をかけるのであった。冬には暖い火がいてある。よるは明い燈火ともしびが輝いている。そしてこの広い一室のなかにはあらゆる階級の男女が、時としてはその波瀾ある生涯の一端を傍観させてくれる事すらある。Henriアンリイ Bordeauxボルドオ という人の或る旅行記の序文に、手荷物を停車場に預けて置いたまま、汽車の汽笛の聞える附近の宿屋に寝泊りして、毎日の食事さえも停車場内の料理屋でととのえ、何時なんどきにても直様すぐさま出発し得られるような境遇に身を置きながら、一向に巴里パリーを離れず、かえって旅人のような心持で巴里の町々を彷徨ほうこうしている男の話が書いてある。新橋の待合所にぼんやり腰をかけて、いそがしそうな下駄の響と鋭い汽笛の声を聞いていると、いながらにして旅に出たような、自由な淋しいい心持がする。上田敏うえだびん先生もいつぞや上京された時自分に向って、京都のすまいもいわば旅である。東京の宿も今では旅である。こうして歩いているのは好い心持だといわれた事がある。
 自分は動いている生活の物音のなかに、淋しい心持をただよわせるため、停車場の待合室に腰をかける機会の多い事を望んでいる。何のためにここに来るのかと駅夫に訊問された時の用意にと自分は見送りの入場券か品川行の切符を無益に買い込む事を辞さないのである。

 再びいう日本の十年間は西洋の一世紀にも相当する。三十間堀の河岸通かしどおりには昔の船宿が二、三軒残っている。自分はそれらの家の広い店先の障子を見ると、母がまだ娘であった時分このへんから猿若町さるわかちょうの芝居見物に行くには、猪牙船ちょきぶね重詰じゅうづめの食事まで用意して、堀割から堀割をつたわって行ったとかいわれた話をば、いかにも遠い時代の夢物語のように思い返す。自分がそもそも最初に深川の方面へ出掛けて行ったのもやはりこの汐留しおどめ石橋いしばしの下から出発するちいさな石油の蒸汽船に乗ったのであるが、それすら今では既に既に消滅してしまった時代の逸話となった。
 銀座と銀座の界隈とはこれから先も一日一日と変って行くであろう。丁度活動写真を見詰みつめる子供のように、自分は休みなく変って行く時勢の絵巻物をば眼のいたくなるまで見詰めていたい。
明治四十四年七月
②/②

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