武蔵野 山田美妙 青空文庫より~②

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武蔵野 山田美妙 青空文庫より~②


             下

 夜は根城を明け渡した。竹藪たけやぶに伏勢を張ッている村雀むらすずめはあらたに軍議を開き初め、ねや隙間すきまからり込んで来る暁の光は次第にあたりの闇を追い退け、遠山の角にはあかねの幕がわたり、遠近おちこち渓間たにまからは朝雲の狼煙のろしが立ち昇る。「夜ははやあけたよ。忍藻はとくに起きつろうに、まだ声をもださぬは」いぶかりながら床をはなれて忍藻の母は身繕いし、手早く口をそそいて顔をあらい、黄楊つげ小櫛おぐしでしばらく髪をくしけずり、それから部屋の隅にかかッている竹筒の中から生蝋きろうを取り出して火にあぶり、しきりにそれを髪の毛に塗りながら。
「忍藻いざ早う来よ。蝋けたぞや。和女おことも塗らずか」
 けれど一言の返辞もない。
「忍藻よ、おしもよ、いぎたなや。秋の夜長に……こや忍藻」にっこりわらッて口のうち、「昨夜ゆうべいといくさのことに胸なやませていたていじゃに、さてもここぞまだ児女わらわじゃ。今はかほどまでに熟睡うまいして、さばれ、いざ呼び起そう」
 忍藻の部屋の襖を明けて母ははッとおどろいた。承塵なげしにあッた薙刀なぎなたも、床にあッた※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子くさりかたびらも、無論三郎がくれた匕首もあたりには影もない。「すわやおれがぬかッたよ。常より物に凝るならい……いかにも怪しい体であッたが、さてもおれは心つきながら心せなんだ愚かさよ。慰め言を聞かせたがなおもなおおもいわびてけ出でたよ。ああら由々しや、由々しいことじゃ」
 心の水はえ立ッた。それ朝餉あさがれいかまどを跡に見て跡を追いに出る庖廚くりや炊婢みずしめ。サア鋤を手に取ッたまま尋ねに飛び出す畑のしもべ。家の中は大騒動。見る間に不動明王の前に燈明あかしき、たちまち祈祷きとうの声が起る。おおしく見えたがさすがは婦人おんな,母は今さら途方にくれた。「なまじいに心せぬ体でなぐさめたのがおれの脱落ぬかりよ。さてもあのまま鎌倉までもしは追うていたか。いかに武芸をひとわたりは心得たとて……この血腥ちなまぐさい世の中に……ただの女の一人身で……ただの少女おとめの一人身で……夜をもいとわず一人身で……」
 思えば憎いようで、可哀そうなようで、また悲しいようで、くやしいようで、今日はまた母が昨夜ゆうべの忍藻になり、鳥の声も忍藻の声で誰の顔も忍藻の顔だ。忍藻の部屋へ入ッて見れば忍藻の身の香がするようだし、忍藻の手匣てばこへ眼をとめれば忍藻が側にいるようだ。「胸は騒ぐに何事ぞ。早く大聖威怒王だいしょういぬおうの御手にたよりて祈ろうに……発矢はッし、祈ろうと心をばすかしてもなおすかし甲斐もなく、心はいとど荒れに荒れて忍藻のことを思い出すよ」心は人の物でない。母の心は母のもの。それで制することが出来ない。目をねむッて気を落ちつけ、一心に陀羅尼経だらにきょうを読もうとしても(口の上にばかり声は出るが)、脳の中には感じがない。「にあらず。無にあらず、動にあらず、じょうにあらず、しゃくにあらず、びゃくにあらず……」その句も忍藻の身に似ている。
 人の顔さえ傍に見えれば母はそれと相談したくなる。それと相談したとて先方が神でもなければ陰陽師おんようしでもなく、つまり何もわからぬとは知ッていながらなおそれでもその人とひざを合わせてわが子の身の上を判断したくなる。それでまた例の身贔負,内心の内心の内心に「多分は無難であろうぞ」と思いながら変なもので、またそれを口には出さない。ただそこで先方の答えが自身の考えに似ていれば「実にそう」とは信じぬながら不完全にもそれでわずかに妄想もうぞうをすかしている。
 世にいじらしい物はいくらもあるが、愁歎しゅうたんの玉子ほどいじらしい物はない。すでに愁歎と事がきまればいくらか愁歎に区域が出来るが、まだ正真しょうじんの愁歎が立ち起らぬその前に、今にそれが起るだろうと想像するほどいやに胸ぐるしいものはない。このような時には涙などもあながち出るとも決ッていず、時には自身の想像でわざと涙をもよおしながら(決して心でそれを好むのではないが)なお涙が出ることを愁歎の種としていろいろに心をくるしめることがある。
 だから母は不動明王と睨めくらで、経文が一句、妄想が一段,経文と妄想とがミドローシァンを争ッている。ところへ外からおとずれたのは居残っていた(この母の言葉を借りて言えば)懶惰者なまけもの、不忠者の下男だ。
「誰やらん見知らぬ武士もののふが、ただ一人従者ずさをもつれず、この家に申すことあるとて来ておじゃる。いかに呼び入れそうろうか」
「武士とや。打揃いでたちは」
「道服に一腰ざし。むくつけい暴男あらおとこで……戦争いくさを経つろうを負うて……」
「聞くも忌まわしい。この最中もなかに何とて人に逢ういとまが……」
 一たびは言い放して見たが、思い直せば夫や聟の身の上も気にかかるのでふたたび言葉をあらためて、
「さばれ、否、呼び入れよ。すこしく問おうこともあれば」
 かしこまって下男しもべは起って行くと、入り代って入って来たのは三十前後の武士だ。
御目おんめにかかるは今がはじめて。これは大内平太へいだとて元は北畠の手の者じゃ。秩父刀禰とはかねてより陣中でしたしゅうした甲斐に、申し残されたことがあって……」
「申し残された」の一言が母の胸にはくぎであった。
「おおいかに新田の君はでとう鎌倉に入りなされたか」
「まだ、さては伝え聞きなさらぬか。堯寛たかひろにあざむかれなされて、あえなくも底の藻屑もくずと……矢口で」
「それ、さらばまことでおじゃるか。それ詐偽いつわりではおじゃらぬか」
「何を……など詐偽いつわりでおじゃろうぞ」
 よもやと思い固めたことが全く違ッてしまったことゆえ、今さら母も仰天したが、さすがにもはや新田のことよりは夫や聟の身の上が心配の種になッて来た。
「さてはその時に民部たちは」
「そのこと、まことそのことにおじゃるわ。おれがこれから鎌倉へ行こうぞと馳せ行いたみち、武蔵野の中ほどで見れば秩父の刀禰たち二方は……」
「さて秩父たち二人は」
「はしなくも……」
「もどかわしや。いざ、いざ、いざ」
「はしなくも敵に探られて、そうじゃ、そのままたおされて……」
「こわそぞろ、……斫り斃されて……発矢そのまま斫り斃されて……」
「その驚きは道理ことわりでおじゃる。おれも最初はじめはそうとも知らず『何やらん草中にうめいておる者のあるは熊に噛まれた鹿じゃろうか』と行いて見たら、おどろいたわ、それがかの二方でおじゃッたわ」
 母ははやその跡を聞いていられなくなッた。今まではしばらくこらえていたが、もはや包むに包みきれずたちまちそこへ泣きして、平太がいう物語を聞き入れる体もない。いかにも昨夜ゆうべ忍藻に教訓していたところなどはあっぱれ豪気なように見えたが、これとてその身は木でもなければ石でもない。今朝忍藻がいなくなッた心配の矢先へこの凶音きょういんが伝わッたのにはさすが心を乱されてしまッた。今はその口から愚痴ばかりが出立する。
「ちぇイぬしを……主たちを……ああ忍藻が心苦しめたも、虫…虫が知らせたか。大聖威怒王だいしょういぬおうも、ちぇイ日ごろの信心を……おのれ……こはこは平太の刀禰、などその時に馳せついて助…助太刀してはたもらんだぞ」
 怨みがましく言いながら、なおすぐにその言葉の下から、いじらしい、手でさしまねいで涙をすすり、
「聞きなされ。ああ何の不運ぞや。夫や聟は死に果てたに……こや平太の刀禰、聞きなされ、むす…むすめの忍藻もまた……忍藻もまた平太の刀禰……忍藻はまた出たばかり……昨夜……察しなされよ、平太の刀禰」
「昨夜、そもいかになされた」
 母は十分に口がけなくなッたので仕方なく手真似で仔細しさいを告げ知らせた。告げ知らせると平太の顔はたちまちに色が変わッた。
「さらばあの※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子くさりかたびらの……」
 言いかけたがはッと思ッて言葉をめた。けれどこなたは聞きとがめた。
和主おのしはそもいかにして忍藻の※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子を……」
※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子とは何でおじゃる」
「何でおじゃるとは平太の刀禰、むすめ、忍藻の打扮いでたちじゃ。今もその口から仰せられた」
 平太も今は包みかね、
「ああすべない。いたわしいけれど、さらば仔細を申そうぞ。なげきに枝を添うるがいたわしさに包もうとはつとめたれど……何をかくそう、姫御前ひめごぜ※(「金+樔のつくり」、第4水準2-91-32)帷子を着けなされたまま、手に薙刀を持ちなされたまま……母御前かならず強く歎きなされな……獣に追われて殺されつろう、はぎのあたりを噛み切られて北の山間やまあいに斃れておじゃッた」
 母は眼を見張ッたままであッた。平太はふたたび言葉を継いだ。
「おれがここへ来る途じゃ、はからず今のを見留めたのは。思えば不思議な縁でおじゃるが、その時には姫御前とはつゆ知らず……いたわしいことにはなッたぞや、わずかの間に三人みたりまで」
 母はなお眼をみはッたままだ。唇は物言いたげに動いていたが、それから言葉は一ツも出ない。
 折からかどにはどやどやと人の音。
忍藻御おしもごは熊に食われてよ」

  ――――――――――――――

    ついでながらこのころ神田明神は芝崎村といッた村にあッてその村は今の駿河台するがだいの東の降口の辺であッた。それゆえ二人の武士が九段から眺めてもすぐにその社の頭が見えた。もしこの時その位置がただいまのようであッたなら決して見えるわけはない。


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