新古細句銀座通 岸田劉生 青空文庫より〜

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 私は明治二十四年に銀座の二丁目十一番地、丁度今の服部時計店のところで生れて、鉄道馬車の鈴の音を聞きながら、青年時代までそこで育って来た。だから銀座のうつりかわりは割合にずっと見て来ている訳であるが、しかし正確なことはもとよりわからない。が、「煉瓦れんが」と呼ばれた、東京唯一の歩道時代からのいろ/\のうつりかわりにはまた語るべきことも多い様である。いろいろの思い出やら、変り行く世の姿から思い起す批評などとりとめもなくかいてみようと思う。
 御承知の方々も多いと思うが私の生家は目薬の精※(「金+奇」、第3水準1-93-23)水の本舗であって、岸田の楽善堂というよりも精※(「金+奇」、第3水準1-93-23)水といった方が通る位の店であった。父(吟香)の道楽から店を半分に切って一方を薬房、一方を書房とし、書房では支那の筆墨硯紙その他文房具風のものや、書籍などを売っていた。唐紙の様な紙を太くこよりの様にしたのに火をつけ、フッと吹くと、ポッと燃えフッと吹くと消えるという様なものがあったりして、面白がってそれをやって遊んだこともある。よく支那人が買いに来ていて番頭さんが片言で「鎮座チンザオ々々」なんどとやっていた。王テキサイ(字不明)という片腕ない支那人が父のところへよく来たが、これは馬車に腕をひかれたのだとか、多分品物を売り込みに来たものであろう。何しろ日清戦争のじき後のこととて、王テキサイという名が大きな敵の様な気が子供心にして反感を持っていたことなど思い出す。
 私の家の隣には勧工場かんこうばがあって私たち兄弟たちは毎日の様にそこへ行った。何でも私の家の家作であって、南谷という人がやっていた。南谷は今以て人形町に店があるがきんちゃくがしっくいで入口に出来ていたので俗にきんちゃくの勧工場ともいっていた。勧工場も日露戦争後、デパートメント・ストーアの流行とともにだん/\とすたれて、今はほとんど無くなった様だが、当時は少し人出の多い盛り場には必ず一つや二つはあったものだ。銀座だけでも一丁目のもとの読売新聞の一、二軒隣に丸十、そのすじ向いに丸吉、それから南谷、震災前まであった菊屋のところに小さいのが一つ(これはじきなくなった)尾張町の今の鳩居堂のすじ向うあたりに一つ、一丁おいて又一つ、それから新橋際の博品館と六、七軒の勧工場があったものである。
 誠にこの勧工場というものは、明治時代の感じをあらわす一つのもっともなるものであって、私共にとっては忘れられない懐かしいものの一つである。細い一間半位の通路の両がわに、玩具、絵草紙、文房具、はては箪笥たんす、鏡台、漆器類、いろ/\のものを売る店があって品物をならべた「みせだな」の一角に畳一畳位の処に店番の人が小さな火鉢や行火あんかをかかえてちんまりと座って、時分時にささやかな箱弁当でも食べていようという光景はとても大正昭和の時代にはふさわない。
 夜の灯が電気に占有されたのは大正初めからだが明治時代は一般には石油ランプ、それがおいおいガス灯になったものだが、銀座の勧工場は早くから電気灯がついていた。子供の時分、一丁目の丸吉の勧工場へ夕方行っていて、不図ふと天井を見た時、長い廊道の天井に一列についている電気がスーッと一どきについたのを大へん美しく思い、それからよく夕方その電気のともるのを見に行ったものであった。宅の隣の勧工場には早くからアーク灯がついていてその光りの色を私は大へん好んだ。夏になると虫が沢山とんで来て、朝になると、カーボンが歩道の上に落ちていた。明治三十四、五年頃のことか隣の勧工場ではガス会社が宣伝のために出張して、美しいガス灯ランプや、ガス風呂、ガス釜など陳列していたが腕白な私がよくそこへ遊びに行きガス会社だからとて得意のガスを発砲してはふざけたものであった。


 銀座の街路樹を何故なぜもとの柳にしないのかと私はよく思う。今の街路樹は何ともみすぼらしくていけない。柳は落葉が汚いというかもしれないがしかし、同じ冬がれにしても、柳は誠に風情がよろしい。洋風のまちにふさわしくないと思うのかもしれないが決してふさわしくないものではない。ことに春の新芽は美しく町を一層陽気にする。夏は又緑の房が誠によく何にしても大様で柳は誠にいいと思う。
 日本でイルミネーションがはじめて出来たのは私の十三歳の頃のこと、明治三十五年か六年大阪の大博覧会の時であった。父がまだ生きていてのみやげ話に聞いたが、それからしばらくたって明治屋などがクリスマスの時分になるとこれを用いた。しかし、電気のイルミネーションはとも角、ガス灯でこれに似たことを早くから松田がやっていて、隣の勧工場も間もなくこれを真似まねて用いた、松田については後にもかくが、入口が石の門?で緑色にぬった鉄の柵がありその入口には松の形をしたガス灯のイルミネーション?をつけ、夜になると、ボーッと音がしてそれがともっていた。これが柳の並木に照りそって、二昔前の銀座は誠に面白い風情ふぜいがあった。
 銀座の夜店は私のもの心づく時分から盛であった。この節はまたちょい/\見かけるが、昔は午前中から、いろ/\の露店が出ていた。この露店に売るものや売る人にもいろ/\の推移や思い出があるが、長くなるからほんの少しばかりかく事にしよう。今も昔も変らないのが骨董こっとうの夜店であるが、銀座の夜店の骨董に真物ほんものなしといわれるまでに、イミテーション物が多いのは事実である。が、時にはいい掘り出しもあったとか、あるとか、私には経験はない。が、今は山の手なり郊外なりの御夫婦づれなどが、この骨董の露店の前に立ったり、しゃがんだりしているのを見ると私は何となくいい感じを持つ。そういう人たちの心持ちの中には美しいものがあるように感じられる。花屋の前に立ってチューリップの一鉢を買うのも可愛いいが、これが安物の骨董となると一層二人の可愛らしい趣味なり心得なりが感じられるようである。
 私の家の前にはいつも「正」さんという老人の骨董屋さんが出ていた。紀の国橋を渡って木挽こびき町の方へしばらく行ったところにこの正さんの古物骨董の店があって、正さんは雨さえふらなければ毎夕車の上に荷をのせて、私の家の前にうすべりを敷いてむずかしい顔をしてだまりこくって座っていた。全くこの正さんの顔はむずかしい顔であった。木ぼりのえんまさんとよく皆がいったが、きちんと端座して一と処をみつめた顔は正にその通りである。うちの万吉という薬を調合する男が正さんの家の近くに住んでいて正さんとは仲よしらしかったが、この老人も私の子供の中になくなったとみえいつかいなくなってしまった。
 夜店で一ところ人気のあったのは、何だか知らぬが、卵の白みから作ったとかいう化粧液を売る眼のギョロッとした立派な八字ひげを生やした男である。実に不思議な音声とふし廻しと言葉とでその化粧液の効能をのべていたが、私はこの男のせりふがすきで出ていると必ず永く立って聞いていたものだった。この男はまだ健在で今は長大なピンセットで紙の将棋しょうぎの駒を動かしながら「何とかして角べろりん」などと例のふし廻しでしゃべりながら将棋の必勝か何かの本を売っているが、銀座では見かけない。


 銀座の縁日といえば七日、十八日、二十九日と十日ごとに一日ずつ出世する出世地蔵が有名である。昔は銀座四丁目の角から三十間堀の方へずらりと出たもので私はぶどう餅が大の好物でそれも亥之助のでないといけないなどとつうをふり廻したものである。
 縁日は植木もさる事ながらあの赤や白色とり/″\に美しいほおずき屋の店はカンテラの光や油煙とともに誠に旧日本の美のもっともなる一つであるといってもまあそう過言でもあるまい。
 銀座の縁日に見世物が御はっとになったのはいつの頃からか、二十幾年前からのことだとは思うが、その前までは盛にいろ/\の見世物が出たものだ。中にはあの生人形の大山スッテン童子――いうだけ野暮やぼだが、われ/\はの大江山酒呑童子君しゅてんどうじくんをこう呼んだものだ――このスッテン童子君がフラ/\する手付で大杯をかたむける毎に顔色がかわり遂につのを生じ、駄々をこねあげくに後ろにどうとひっくりかえるとその緋のはかまがそのまま赤いころもとなってグロテスクな達磨だるまと変じヒョコ/\とおどり出す。そのスッテンとひっくりかえるのが、スッテン童子たるゆえんのような心持ちが吾々子供心にしていたものだが、この見世物などに至っては誠に吾等ファンを喜ばせたものであった。後年木村荘八はこれを根岸の縁日において発見して大いに喜び、その芸に精通し、ことに鬼婆が妊婦にんぷをさいてそのはらの子を食う人形ぶりに至っては真にせまれるものあり、人形のこととてはら子をほんとうに食べてしまうわけにはゆかぬところから説明者が口ぞえして、「後の楽しみにとりおく」とその腹子をあとの楽しみにさせてしまうところの形などは誠に迫真のものであった。私もこれをまねてみるが到底木村荘八には及ばぬ、読者諸君し昔のこの見世物を覚えていてなつかしいと思ったら本郷森川町を訪問し給え。
 大蛇、河童かっぱ、ろくろ首、けっかい等は珍しからず。変ったものでは、鎧武者が本馬にのって、柵の中の土間の上で三浦の大介だとか、何だとかいって立廻りをしている芝居があったが私は荷作り場の番頭さんの背中におぶさって、番頭さんが感心してみているのと一緒になって感心したのを覚えている。明治三十何年かの有名な御茶の水のおこの殺しが、じき見世物になり、おこのの血だらけの顔を表看板のかわりに幕にかいて張り出してあるのをみて、ひどくおびえ顔をうて逃げたこともあった。見世物の客を呼ぶ声は「アーバイ/\」と聞こえるが、あれは「アー評判え/\」というのが、「豆腐ーイ」が「えーうーい」になるような音便の変化によるものであるが、私共は銀座の家の二階でよくこの見世物ごっこをして、盛んに「アーバイ/\」とやったものである。
 蓄音機が非常に珍しくまだ平円盤がなくて蝋管ろうかんの時分、高いところへ蓄音機をえてそのわきに端座し銭をとって今日のレシーバーの役目をする長いゴムの管を客の耳に貸し、佳境に至ると大声をあげて「コライ」とはやし、他の客のきき慾をそそっていた男があった。如何いかにも道楽者らしい年配の顔の長い男であったが、何という事なしに私はこの男がきらいであった。しかしこれも今はなつかしい。
「おバあさんが夜なべに絹針ときたら行灯あんどんの前で」とかなしげに唱えて、「親孝行のおみやげはこれが一番」と針のめど通しをうる男や、「オランダのコッペイ散、やわ/\のぐい/\、ぐい/\のやわ/\」などという珍なものもあるが夜店ばなしはこれ位にして、今度は、今日の銀座を歩きながら、新を語り、旧を思ってみる事としよう。


 新橋が美しい鉄のらんかんの橋となったということを私はおぼえているような気がする。角には博品館という東京一の勧工場かんこうばがあったが、これはもと博品館とはいわず、俗に新橋の勧工場といっていたが、私が十一、二の頃に改築されて博品館となったものである。これが出来た時はなか/\の評判であった。定まった階段というものがなく、道が坂になっていて、途中二、三段位のゆるい階段が所々にあるきりで、自然と階上に行ってしまうという趣好が歩道にあるスリガラスの光りとりとともに評判であって、出品物も中々いいものがあり、何となく高級という感じを私どもが持っていたものである。私は今でも時々勧工場の夢をみるがここの景をみることが多い。ここの階上の裏側の窓から新橋の美妓諸姉の夕化粧の艶姿あですがたがみえるとて、若いものたちが事に託してかいまみたものだとて今日の古老のうちあけ話である。今日では一階の小デパートになっているが、私は本記事の挿画をかかんとて鉛筆をここに求めたが、店員君がどこかへ行っていて買わずに出て来てしまった。
 足が一歩銀座に入ると実にモダーンである。何かいい材料にと思ってポカンとしている前をつばめの如く、断髪の美女がかすめて通る。一と昔前の女性とは種類が違うかのようにその足が早い。サッ/\と歩いて行く。又向うから三人づれ位の美人が来る。実に女が多い。昔は外へ出ても婦人に会うことは稀であったが、この頃は実に婦人が多い。みな別に用事のある風はない、しかし皆サッ/\と歩いている。
 このモダーンガールというものの好みの審美的考察は如何いかんかくその美しさの種類は、「洋風」の美しさが基本となっている。洋服はかえって少なく和服が中々多いが、しかし、そのあらわしている「美」の感じは洋風の美を基本としている。顔はもとより日本人の顔ではあるが、それを洋風の美にうまく調和させている。そしてそれは決して、翻訳的ほんやくてきなものではなく、又は一時代前の欧化のように無理に似せたものでもなく、極めて自然な一種の美しさとなっている。つまり、日本人の顔からいつの間にか、東洋的な審美が消えうせて、自然と洋風な顔になっているとでもいえる感じである。
 この事は今日の歌舞伎役者の顔についてもいえる。昔の田之助でも五代目菊五郎でも又は今日の中車、源之助などの顔には、如何いかにも、のんびりとした、粋な、東洋風なところがあったが、今日の役者衆の顔は例外もあるが、どうも、この間のびの味がなく、キリッとしたいい男だが、どうも、バレンチノといったようなところ、または重役様のおぼっちゃんといった感じがする。
 がこれ等のことは誠に自然のことであって、日本は今後経済的にも、思想的にも、又あらゆる生存上のいろ/\の必要、たとえば医学、政治、軍事、法律、それ等のもの一切、今後ます/\古き日本、封建時代の日本を離れて行かねばならない。姑息こそくなる国粋論者はよく、近来の漢法薬の復興をもって、東洋医学の権威を主張しようとするが、その漢薬が本統に何病かに利くということや、それが何病であるかという、臨症上のことは、残念ながら漢法はゼロである。一切の物質文明は何といっても、今後の日本を欧化させずにはおかない。かくて日本は欧化され切った時にはじめて欧化されない日本自身のすがたを見ることであろう。


 が、しかし、趣味生活の上から見てこの事は何と淋しいことであろう。茶の湯、活花、能、さては歌舞伎、日本風の店舗、橋、町、著物きものこういうものは、相当永く存続するにしても長い間にはいつかは失われてしまうであろう。精神が残るというか、しかし、一切の生活が変ってしまって欧化された時には、民族の心の文明もその形をかえずにおられない。私は、電灯をみるとよく考えるが、大正以後に生れた子供の「灯」という観念と私共の持つ「灯」という観念とは全く異なるものだと思う。夜になればあかりがつく。が大正以後の人々にはあかりといえば、あのガラスの球の中に細いいかにも味のない、機械的な線を持った、電灯をしか思わないであろう。これは一例である。「本」といえば、クロースの金文字の本。そして見るものは、電気で轟々と走る車、トラック、かくの如く、そこには自然のふくよかさ、なごましさの形はなく、堅く、熱く又はつめたくとげ/\しい形の機械のみである。
 未来派、構成派の諸君たちの仕事はこれ等の現代の感じをよく表現しているものであって、私は自分の仕事の道とは別に、かかるものを、一種の芸術的表現として認めることが出来る。
 かくの如く、民族の心、内的なるものがすでに変って行っているのである。永い後にはこの文明も何等かの又新しい形において落ちつき、又静かに美しい文明が来るかもしれない。しかしその時は又変ったものが生れるのであって、一旦失われた、ふるき日本ふるき東洋の文明は再びこの世界にもどらぬものであろう。
 ところで問題は、このふるき日本の趣味は、失われるものであるがゆえに、悪きもの、又は劣りたるものであろうかという事である。私をしていわしむれば、正にその正反対である。即ち、それは、よきがゆえに亡びて行くのである。今後の文明は、趣味生活と文質的便利とが、相殺そうさいせず、よき調和を保つものになって行くと思われる、というよりも、今後の文明における趣味生活は、合理的社会生活から来る人間の幸福感によって、さ程まで、端的に極端に要求される事がなくなって行く。茶の湯の水が、どこの井戸の水であるかを一掬もって味わいわけたというような又は家を捨て妻を捨て娼婦と心中するというような、そういう趣味の為の趣味、趣味に没入し生命を感ずるというようなことは不合理的社会、いいかえれば、資本主義的社会においてはじめて生れ、育ち、深まるものである。即ち個人の所得が均等しない時多く得たるものは多く費し、それの必要からよりよき満足を与えるためにより深き味を造る。更に一方から見れば、人間社会は不合理社会のもたらす不安心によって、何か他に端的に見、味わい、なす事によって満足を得ようとする。即ち趣味生活なり、芸術生活なりというものは、人類の倫理的又は合理的生活への欲望に対するバベルの塔であって、人類がその最後でなくて得られぬ倫理的満足を、現在において何等かの他の方法によってその片鱗なり、真髄なりを見んとする欲望だといっている。で自然、人類が合理的生活へ向って行き出すと、この趣味生活への要求は緩和され、弱められて来ると私には思える。
 ところで今、世界の大勢は近代になってます/\この合理的生存へ向っていると見られる。正に今の時代は、今まで意識しなかったものを意識し、分別し、処理している時代であって、今後の人類の要求は正に芸術を離れて、思想へ向い、趣味を離れて、実際に向っている。しかし、趣味というものが全然なくなってしまうとは考えられない。人類は機械ではないから。しかし、富の平均と生活への不安の除去とは趣味の平均を来たし、つまり可もなく不可もないものとなる事であろう。


 かくて、趣味というものはどうしても資本主義の爛熟した時代が最もいいものとなる。そしてわがくに江戸時代、封建の夢三百年の時代は正に世界にその比を見ない程あらゆる点でその趣味生活を深めるに好都合の時代であり、また国柄であり、また、国民性であった。
 この最後の国民性、わが邦民族の趣味のその不思議なる繊細さと複雑さと、渋さと、深さはまた不思議なものである。東洋は概してその点で洋人にまさるが、日本はまた、支那、朝鮮に勝ること格段である。これあるがために茶の湯が生まれ、能、能衣しょう、漆器、ちりめん、浴衣ゆかたが生れ、歌舞伎が生れ、音曲が生れ又遊里ゆうりが生れたのである。そして、それ等のものを生む力と生んだものとによって、日本人は主従のきびしきへだたり、階級のへだたりを不思議とも思わず、そこに不思議のなごやかな美しささえ生んで三百年否二千年を経て来たのである。
 忠孝ということはある社会からは不思議かもしれないがそこにある「美」だけは不変のものであろう。しかし如何なる時代がきてもかかる強い「美」を再び生むことはむずかしい事だと思える。
 こういう風に、私は趣味というものをみている。そして私は、画人の事だから、どうしても、合理的社会よりも、趣味を愛する。どちらを愛するのが正しいか、どっちでもないと思える。そして今日ではまだ/\趣味を愛する心の方が、より深きものを蔵する心であるといってあながち付会ではない様な気がする。
 どう考えてみても、私は西洋の審美より、日本の審美の方が深く渋いと思える。女の姿形は更なりその顔の味からいっても、二た昔前の美妓の写真と今日のモダン美人との顔では美しいということは同じでもその美の味に深浅、渋甘、の大きなへだたりがある。
 モダンの美には「静」がない。これは世相の反映である。モダンの美は、いそがしい美である。瞥見べっけんの美である。目を撃つ美で、観照すべき美ではない。ぬれ羽色の髪に、つげのくしの美しさは見れば見る程味の出る美である。断髪や、耳かくしの味は人をして見さしめる美であって、味わわしめない。それに髪の美ではなく顔の美のための髪の形づくりである。切れの長い面長に、うす化粧した顔は見る程に味の出る顔である。しかし、頬べにを赤くさし、眼のふちを色どり、くちびるを赤くした顔は男を引きつける美しさはあるが、長く味わう事は出来ない。
 しかし、総じて、モダンは女性を美的に平均した。これはただに化粧が一般的に上手になったというのみでなく、又化粧法が誰でも美人にみえる様な様式になったからというのみでなく、女性の顔そのものが概して昔の様に不平等でなく一般に平均されて美しくなったという事も事実であろう。この事は女性にとってたしかに幸福であるが、しかし先程ものべた通り、平均という事はずバぬけたもののなくなることである。それは今日だってずバぬけた美人はあろうが、しかし、審美上からみての「美」つまり通俗的なところから一歩進んだ、辛いところの「美」しさというものはどうも現今の美人にはなくなった。この事は何を語るか、つまり、真の美が個人から消えて、或程度の美が一般的に普遍されたという事を語るものではあるまいか。論いささか奇警きけいに似たる感があるかもしれないが深く考察してみる時、この言必ずしも不当ではないと信ずる。今後の文明は平均、平等への文明である、そしてそれは自然律から生れている。自然に生ずるところの生物のいろ/\の法則もそれに応じて形づくられて行くという事も考え得られぬ事ではない様に思われる。
 兎も角も今日古い日本の趣味が失われて行く事は淋しい。それは止めて止らぬ事であるしまた止めてはならぬ事である。しかしそれだからとて、惜しんでならぬものではない。深く知って深く惜しむ、それが本当の古き日本趣味者の心でなくてはならない。私としては自分をこのモダンの中に投入れる事はまっぴらである。世はうつるのが至当であるが、しかし、幸に自分は古き日本の美を知って生れ味い得る最後の人間の一人である。せめてわれ等だけでも出来る範囲においてこの失われるべきものを最後に愛撫し、味わい、出来れば何等かの形において新しき力もて後世への範として残したい。これも正しく、自然なり人類なりの一つの強く深き要求であると思えるのである。
 銀座の話がどうも飛んだ面倒な議論になったが、しかし銀座の事を考えるからは、モダンなりモダンガールなりの事を考えない訳にはゆかない。それで少々不得手な議論をしてしまったがむずかしい事はもうこの位にして、さてこれから又そろ/\歩き出すとしよう。


 銀座通りで、昔から今まで残っている店は私の思ったより多いが、しかし大多数はどん/\移り変って行く。青柳という菓子店は古くから覚えている。ゑり治は、ゑりえんと共に私の姉などのよく親しんだ店の一つで東都の半襟はんえりの大頭の一つである。長寿庵というそば屋も古い。一体この地代なり店員なりの高い銀座通りに、そば屋が昔からあるということはちょっとなものであるが、しかしそばとても決して馬鹿に出来ないものなのだということをこの店や、四丁目のやぶそばが証明しているのだと見ることも出来る、やぶのことは四丁目に行ってからかこう。とも角も、昔からの古い店をたどりつつ、又新しき店ものぞき、又昔あった有名、無名の店々の思い出をこれからたどってみよう。
 松喜という牛屋はいつ頃から出来たか、ずっと以前はなかった様だ、しかし二十年位は経つだろう。銀座の牛屋では一丁目に吉川というのがあって、今は新橋ステーションわきの有楽軒?というレストランをしている。この辺の事は又あとでかこう。牛屋も一時、カフェーやレストラン等の興隆とともにパッタリさびれて、『いろは』をはじめ大どこが大分店をしめたが、近来又々盛んになった。何といっても日本人と牛鍋は、たとい味は新しくとも、離すに離せぬ間柄であろう。牛屋の姉さんというものはこれまた昔かわらぬ趣がある。もしそれ牛屋の姉さんが断髪になって現れたら、これは事だ。しかし、高浜虚子先生の説の通り、ちぐはぐにみえるのも、いつかは目なれるという事は本当だから、その中断髪嬢が『ナマお代り』といって皿を肩へのせて階段を上って来るかもしれぬ、いやもう来ているかもしれない。
 八呎屋も昔は額ぶち、洋画店である。ここの主人はかわり者で名高い、河村清雄先生の絵が以前沢山あったものだ。河村先生は私は私淑した事はないが、今となってみると先生の洋行時代のあの古い西洋くさい画もなつかしい。資生堂は昔は薬専門の家であって、私の生家とは同業で、よく福原々々ということを耳にした。今は化粧品で名高く、嬶殿かかあどのなどは大のひいきである。当主が国展の方の後援者で又写真の大家であり、階上は小展覧会場としてよろしい。横丁へだてた手前がちょっとしたランチ風の食事やのみもののうまいのをのますところになっている。ここは、もうかれこれ十六、七年前からカフェーをはじめていて、私はその時分ここを油絵にかいて出品したこともあった。信盛堂はそう古くもないが新しい店でもない。赤いのがその店の看板か、しかし、安くていい品を売るので、私も大いにここを愛用?している。山の手の会社員風の人が常に雑踏ざっとうしてものを買っている。かめ屋は古い。昔のかめ屋は横丁に向いた白赤色の壁を持っていてペンキで非常にうまく、西洋風のポンチ絵のような絵がかいてあった。やはり食料品のポスター風のやくめをしていたものであろうが、その絵が何か西洋の絵を模写したものらしく、当時のペンキ画工の中々描き得るものでなかったゆえであろう、絵の好きな私は、ひどくこれを崇拝し時々行ってみては感にたえて、行って来ては真似して描いていたものである。
 かめ屋の横丁の次の角が、近頃出来た沢正関西料理店という家だが、一円定食としてある。上ってはみないが何だか変てこな名である。美濃常も古く、天賞堂も古い。この天賞堂は私共夫婦がはじめてささやかな家を持った時、柱時計を買った思い出がある。何しろ売り出しと、低価提供時間等で名高いからお上りさんや、山の手に一層有名である。しかし、品物も上等であろう。


 警醒社は教文館と相まってキリスト教的色彩の濃い店である。少年時代から二十歳頃まで熱心なクリスチャンであった私はこの二店が何という事なしに好きであった。この警醒社の近くだったと思うが、伝道を主とする何とかいう教会があって、救世軍に似たやり方で伝道をしていた。名を忘れてしまってすまないが何とかいう黒いあごひげを生やした、声の大きい熱心な牧師さんがいていつも獅子吼ししくしていられた。
 私はこの新橋の近くの通りの昔の姿が誠になつかしい、先程まであったチューインガムの辺に青桐だったか、又は樫ようの樹だったか、大きな樹が街路樹と反対の家のある方に生えていてその下に小さな煙草店があり、そのわきには、明治風の例の銀座特有の洋風な店が立っている、夜など誠に美しい感じがしたもので、やはり今でもこの感じを夢にみる。
 菊水煙草店も古いが、そのすじ向う?の江副煙草店が無くなったのは惜しいことである。義昌堂はとう細工物さいくもの、ひいて乳母車、子供用の自転車等を売るので有名だが、支那雑貨をいつの頃からかやりはじめていたが、今はどうかしらん。ずっと通って黒沢のタイプライター店も古い店である。
 この付近に、前にもちょっと書いたが竹川町の勧工場というのがあったが、日露戦争頃に止めになった。その頃から、階段の壁に大きな油絵の額がかけられていて、絵の好きな私はそれをみるのが楽しみであったがいつかその勧工場が閉ると共に、今度は、油絵や水彩画の常設展覧所となった。丁度そのちょっと前頃から絵ハガキが流行しはじめたが、そこでは洋画家のかいた肉筆の絵ハガキも売っていて、ほしくてならなかった。何しろ、勧工場といえば長い道が可なり続いている。そこへ持って行って、ずっと油絵水彩等の洋画がかけてあるのだから、まだ展覧会というものを、そう見る機会のなかった私にとって、この事は非常なうれしい出来事であった。後になってわかったのであるが、これは、桜田本郷町の磯ヶ谷額ぶち店が当時展覧会出品のいろ/\の作家の売れ残り品やあずかり品をただ蔵して置くのも無駄と、ここを借りうけてやっていたものとか、だからそこに出ているものは皆相当の大家の筆であって、事実私ははじめて真の洋画をしみ/″\と見られる機を得たのであった。
 日露戦争の最中のこととて、戦争画が多く、コサック騎兵が馬にのって逃げて行く、その中の一人が弾に顔をうたれて手を以ておおい落馬しかけている図などあって、私は幾度もそれを真似て描いたものであった。また出征に行く夫を門口まで送る若き妻が、愛児をだいて父親に別れを告げさせている図の、門内にある新緑の楓が日光にすけている色など実に感服したものであった。そこにはまた、父が山本芳翠さんに描いてもらったダイアナ裸女が天上に半月を弓にして引いている図が出ていた、これは、昔宅の書房のところにかけておいたものだが、裸体画であるところから警察から出しておくことを止められたため、久しく物置に入れてあったのを古くなったので、磯ヶ谷へなおし方々あずけてあったものとか後に聞いた。
 この入場料が三銭だったか六銭だったか、私は毎日見に行かずにいられないので母に銭をもらっては、それをつかんでひた走りに走ってそこまで行ったものだ、木戸番をしているのが人のよさそうな老人で、しまいには私の熱心に動かされ「坊ちゃんもう銭はいらないよ」と大びらに木戸御免にしてくれたのは実に光栄であり又うれしかった。
 ここの近くだったか、尾張町一丁目だったかに、鯛みそを売る店があって、その看板が赤い鯛の鱗が金すじでってあった。その鯛の彫りものと看板が好きでいつも私はそれに見とれた、その隣がジャパンタイムス社とかで、人々呼んでタイミソ新聞といったとは外骨氏の書で読んだところである。


 松坂屋は松屋とともに銀座の大名物である。ここの建築は何といっても銀座通り洋風建築の中最も美しいものであろう。
 私は近頃、日本でこのんで建てるあの物質的な堅く寒い機械的な建築を見るたびにあまりになさけなくなる。これ等については後に私の所感を少しのべようが、とも角かかる中にあって松坂屋の建築は如何にもなごやかに見える。色も線も細かい、りも中々にいい、四月末の空の中に美しく建つその屋上には鯉のぼりが二つへんぽんと泳いでいた。
 尾張町一丁目の角がマツダランプである。ここが一種のビルディングとしては最古の一つであろう。多分十余年になると思う、その向うの白牡丹は古い。一時は婦人小間物は白牡丹でなくてはならぬとまでいわれたもので、土用のうしの日べにを売り、買った人には、土製の粗末ながらへんに感じのいい黒い牛の玩具をくれたものであった。ただし今もくれるかどうかは知らない。私はこの牛が好きで、時々女中や姉からこれをもらったことを覚えている。
 カフェータイガーの名は新しいが、その艶色は天下に轟いている。西洋料理屋の名を艶名とは如何とは、いうものが野暮である、殊にここには、文士、画家、役者、能役者等様々の芸術家がひんぱんに出入する由、私はカフェーの味というよりも洋酒の味、西洋の味をよく解さぬため、行ってみても板につかないので、美人に接するのは有難いがどうもてれくさくあまり行ったことはないが、しかし酔余すいよ余興よきょうに、三、四度伺候しこうしたことがある。
 評判だけあって、中々美人が多い、某先生の如きは、大枚五両のチップをはずむと聞いたが、如何いかがなものか、私は五両はおけないから、五十銭を奮発して引きさがった。
 タイガーの向いに路地があってそこを俗に食傷新道といっている、若松というしるこ屋は古くからここにある。もとこの角が絵葉書屋で、銀座にいた頃、小遣いをもらうと弟などとよくここへ来て食べたものだった。二階があって一寸した小座敷があり、粋な婦人などもよく来ていたものであったが、今は小さいバラックで椅子テーブルになっている様である。いつか私も甘いものといえば一口も咽喉のどを通らぬ様になって、今は隣の湯豆腐、その又となりの鉢巻の岡田の方へ足が向く様になった。
 この鉢巻の岡田というのはそう古い事ではない様に思われるが、主人は感じのいいたくましい若者で、江戸前の顔にかくがり頭、それに新しい手拭で鉢巻をしている。酒もうまく、魚は上等、馬鹿貝のちょっと焼いたのなどは全くうまい。ここをつき当ったところに去年から丹緑堂という浮世絵店が出来たが、他の店とちがい主として初期の肉筆の浮世絵を売るので有名、これまでになか/\珍品を出して主人上村君の名が高くなった。
 一体ここの通り三十間堀二丁目は、中々有名な店のあるところである。ここがせんべの売りどころという、塩せんべの田丸屋や袋物屋の平野屋など有名である。


 二十一、二年前は今の平野屋よりもうちょっと四丁目よりの処に住んでいたことがあった。父の歿後銀座の店の十一番地の方を、救世軍に売った当時住居だけをこの三十間堀に移した。妹が主婦で兄や弟妹達とすんでいた。丁度その当時、山崎洋服店が、塔のついた店を新築して、それがなか/\珍しく、殊にショーウインドウには当時大家の西瓜すいかの切り口を写生した油絵と、娘が琴を弾ずる油絵がかかっていて、非常に評判であった。私は脚気かっけになって、三十間堀の家の二階に寝ていたが、銀座の裏通りの昼間というものは何という、のどかな、下町らしい静けさのあるところであろうと今でも思い出す。「甘い薄荷はっか入りの粟の水あめでござーい」といって売りに来るかと思えば、「こうばしや、かりんとう」といって来る「はさみかみそりとぎほう丁ナイフとぎ」「ざるやあみそこし」などと次から次へとのどかな声を張りあげて、この下町の裏通りを、朝から夕まで通る。秋の日がしずかにあたって、祭日などには国旗がひら/\し、道は黄色く秋の日に照らされて如何にも平和である。こういう感じも震災とともに失われてしまったが、しかし、丹緑堂の前に立って二十年前を考えている中にやはり、三十間堀は三十堀らしい感じが出ているのに気付き出す、土地の色というものは不思議なものである。
 さて本通りにもどる。タイガーの二、三軒先に荒井真画堂という、これも額や洋画を売る店がある、この店については私にいろ/\の思い出がある。この店も古い店で私が物心つく時分からあって、洋画のすきな私はよくこの店の前に立ったものである。
 私が十歳位の時であったか、この真画堂にアラビア馬の油絵があってそれがほしくてならず、店の番頭さんの今井さんにつれられてそれを買いに行ったところ、当時の値段で、十何円とかいう高価である。今井さん、大いに困って、店の人を語らい、どうしてもほしいという私に、これは店の看板であるから売れないといってもらってようやくなだめ、その向いの尾張町の勧工場というので、小さい碁盤ごばんのおもちゃを買って、帰った事がある。その後、第一回の文展に出品された倉田白羊君筆の、どこか裏町に小橋がかかっていて、道に日光がさしているところと、蔭になっているところが実に真に迫ってかけているのが懸かっていたが、もうその時分には私も白馬会へ洋画の稽古けいこに行きはじめていて、この絵にひどく感心し、折にふれては見に行き、どうかしてああいう風にかき度いといろ/\そういう場所を描いてみたものであった。
 その他日光で知り合いになった、田淵さんという風来な仙骨を帯びた古い水彩画家の画がよくここの店にあり、その後ここの主人とも知り合いになり、よく田淵さんのうわさをしたものだ。その他私がはじめて額縁を買った家もこの家である。先だって火災にあって半焼したそうだが多幸を祈る。
 十一屋も古い、佐野屋も古い。佐野屋は、二丁目の海老屋とともに日本で高級足袋たびを造る数軒の一つである。ここの足袋をはいたらよその足袋ははけないといっても過言にはなるまい。海老屋は今以て手縫いの由、とも角も、福助、つちや等多量生産のあるにもかかわらず上等の足袋を造るこれ等の店が栄えているのは、まだ/\江戸人の気質かたぎが残っている証拠で喜ばしいことの一つである。


 鳩居堂がここへ移ったのはいつのことか、今は大きな店になり階上は展覧会もできる由、先日歌麿の展観をしたのは結構のことであった。ここの清雲香は私の常用するところ、誠にいいにおいのする線香であると吹聴ふいちょうしておく。
 さてここは、東都目貫めぬきの場所たる、銀座四丁目の交叉点こうさてんである、昔はここに毎日新聞、日日新聞、その他二つの四大新聞社が相対して立っていたのを覚えているが、新聞社は皆それ/″\銀座から影をかくし、丸の内へと移ってしまった。
 今は、カフェー・ライオン、八十四銀行、三共のオリザニン、山崎洋服店がこの四角に陣取っている。
 カフェー・ライオンはカフェーとして古いものの一つである。カフェーの開祖ともいうべきは先ずカフェー・パウリスタであろう。それまでは、一品レストランでなくば、ミルクホールがその代用をしていた。私はこのパウリスタの出来はじめの貧しいながらもおとくい様であった。お小遣いがあると、弟妹を引きつれて、そこへ陣どり、ドーナッツがいいとか、スネークがいいとか、この砂糖はいくら入れてもいいのだとかいいながら当時には珍しい本物のコーヒーをすすったものだ。当時には珍しいというのは、それまでコーヒーというのは角砂糖の中に入れてある豆のこげたもののことだったからである。多分今から十七年ほど昔になると思われる、これが出来るとじき、プランタンが出来た。プランタンの松山君は、白馬会での私の先輩であった。松山君はあの長いからだと顔とをよく研究所へあらわし、ブラ/\としていたものであったが、物にこだわらず、しゃ/\としている風格は今も昔も変りない。プランタンの出来るときは友人の石川伊十君や岡本帰一君などと手つだいに行ったりしたのを覚えている。
 ライオンへはその頃よく生ビールをのみに行ったもので、よくそこで、高村光太郎君に会いビールのコップを林立させたものであった。高村君はあの温容をもって黙々としてただビールをのんでいた、ここの美人が今のタイガーのそれの如くに評判になり出したのはもう少しおくれてからのことで、その頃はもうあまりここへ行かなくなっていた。
 木村屋というパン屋は天下に有名であって、私共子供にとっては忘れられぬパンの幾種類かの製造元である。へそパンというのは甘いややかたい丸いパンの中央に干葡萄が一つ入っている、つまりそれがへそなのである、束髪パンというのは、イギリス巻のまげの形をしているのに所々にやはり干葡萄が入っている、大パンというのは※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)あんパンの形の大きいので※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)ぬきである。木の葉のパンは名の如く木の葉の形をしており、ただの堅パン質のと、※(「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68)の入ったのと二つあった。
「西洋のパン、アメリカのパン、木村屋のパン」という一種の唄?は明治時代を子供で過ごした人の頭に残っている唄だと思うがそれ程木村屋のパンは人口にうたわれた。先にあげた名の如何いかにも明治味めいじあじなのはこの唄とともになつかしいものである。
 が、パンというものも、も早や菓子の域は脱し、飯の域に進んで来た。見よ、木村家の隣には宝来というパン屋あり、その向いには銀座パンという家がある。殊にこの宝来の盛況はめざましいものである。夕方会社の引け時頃になると、省電を越えて郊外に待つわが家庭のために人々は争って出来たてのパンを求めている。誠に「人は飯のみにて生くるものにあらず」「パンなくて何のおのれが新家庭」である。


 西洋でブレッド・アンド・ミルクの生活といえば、日本の冷や飯にたくあんに相当すると聞いたことがあるが二た昔前まで、ミルクにパンに紅茶を一食まぜるということはハイカラな生活で、まあ自慢の一つになるものであった。しかし生活改善、簡易生活等の流行語と、実際的な必要とから洋服通勤諸子の家庭について、パンという物は決して洒落しゃれ見得みえではなくなって来た。しかしここにもう一つ考えられることは、それは勿論必要からのものにしても、パンを食うということには、何といっても欧風に対するわが民族の無意識などうけいがひそんでいるということである。洋服をるということは、殊に勤めに出る身には洒落や見得ではなく全くの必要からであることは明白であるが、しかし、日本人で洋服を初めて著る人の誰がそれをちょっと洒落に又見得に、また更にちょっとえらくなったように感じないであろうか。
 日本人も、だん/\と洋服を著てパンを食うようになったということに対して、これを淋しく思うものは笑われるであろう。かくして日本は文明開化から更に文化へと進んで行くのである。
 明治の半頃、面白い唄がはやった即ち当時のハイカラをうたったものだが。
ぎゅう、ミルクに、ソップにバタ、しゅしゅらしゅんげ(ひげの事)の長いナッポレオンだね、そうら三杯酢は、すっぱいものだね、猫とんびにかっぱのったれかっぱ、とって投げほい」というのである。先だって故人になった古今亭今輔が半分本当に酔って、高座でよく酔っぱらいの話をしてこれをうたったものである。
 だがこの唄は如何にも無智な感じがするが、明治時代の文明開化という様な感じが実によく出ている、今の洋服を著、パンを食べるパパやママ諸子にこの唄の味はないか、有っても誠に結構である。文化の推移は学者の学説よりも民族の無自覚な本能的な憧憬や要求から生れるからである。
 ところでこの木村屋のすぐ隣にパン屋が出来たについては、何か深い因ねん事があるとか聞いた。が人の口はうるさいし、どっちも商売ともに栄えよかしである。わが国パン食将来の隆盛のためにここに三軒、軒をならべ店を向い合っておのがじしはげむがよろしい。しかし、宝来パンの人ごみに比べ木村屋は昔の盛りを多少奪われた感なきにしもあらずである。が、さすがしにせである、悠々ゆうゆうとしてあせらない、これは木村屋の名が決して一都市的のものでなく全く全国的のものであって、地方に深い地盤を持つためだろうと或人がいっていた。パンが地方へ出るものか否かは知らぬが、木村屋の落ちつきぶりは決して、ただのものではない、深い自信ある落著ぶりである。
 この木村屋の大家さんは三丁目の丸八だとか。丸八のことは三丁目で書くが、木村屋の家賃を昔のまま今日に至るまで一銭も上げないということを聞いたが、さすが江戸時代からの古舗丸八である。こういうことは時勢に適さぬかもしれぬが、こういう時勢に適さぬ人が今日いるということも、一つの現象でまた江戸人の最後の華を飾る美しい存在といわなければならない。
 帆かけずしというのはどんなものか食べた事はない。近来銀座にこういう安値の食物屋が出来、中にはショウウインドーに、料理した食い物を飾ってあるが、あれは、見た眼に、美しくなく少しきたなくみえていけない。食物は膳に置いてこそ美し、窓の中に入れて往来からみせるものにあらず、折角のまぐろの切身も、アリタドラッグの如き感じになってしまう。


 山野楽器店も相当古い。御木本はこちとら貧画生にはあまり用はないが、しかし、世界的に有名な家である。先だって三木本の店員がトンカツをたべてあたって死んだというから、本当かと思ったら、洋食心中だなどと先日かつがれた。
 藪そばも古い。三十間堀にいた時分、よくここからそばをとると若い衆が「お待遠、藪でござい」と勇みな声を出して、あつらえを置いて行ったものだ。
 ちょいとあとへもどって、四丁目の四角をまがってみよう。絵はがきの上方屋は、ここへ移ってから十七、八年にもなろう、いやもっとになるかもしれない。もとは三丁目の通りにあって、ひさしの上に目の玉の大きな口を開いて、饅頭笠をかぶったその当時の姿をした郵便屋さんが、手に手紙をもって走っている人形が、えつけてあり、その他トランプの王様や花札などが軒から下っていたものであった。私はこの人形が少しきみ悪かったが好きであった。この看板の味は今の外骨本の挿画にはちょい/\見る、誠に明治時代の浮世画工のかいたものの味であって、今日では全く見る事が出来ない。二丁目の海老屋など一つ思い切って、本建築の時には昔の足袋屋らしくしっくいの大海老でも軒へつけては如何いかん
 竹葉は、有名だが、この頃は食堂風になってしまって、電車道を越した向横町にも出来た。この節は万事御手軽が流行だが、この御手軽という事は何も今はじまった事ではなく、徳川の中期以前から流行したものである。今日戸棚風の箱で「けんどん」と称するものがあるがこの箱の様式は、昔の御手軽そば、即ち慳貪けんどんそばから来たものであって、慳貪とは、吝嗇けちの事、引いては安直という意味になり、つまり御手軽に安直に食べられるそばの事である。「八文うりのけんどんや、浅草町は安まんじゅう」などといったものにて、その入れものが今日いう「けんどん」の箱に入れてあった。それでああいう様式の箱をけんどんというのだと古書でみた事がある。その他まぐろさしみのぶつ切りや、茶めしの流行など、この御手軽というものはいつもかわらぬ流行で、またこの御手軽主義から、中々御手重料理にはないうまいものが発明されて行く。
 一体に東京のうまいものは、本式の料理よりは、ざっかけないものに多い、天ぷらは今日では料理だと思っている人が多いが、あれは料理とはいえまい。すし、そば、天ぷら、蒲焼等はどうしても、茶の湯の盛んな上方では駄目である。
 この横町を入れば、誰の目にも歌舞伎座の大建築が見える。が私はこの建物を美しいとどうも思えない、和風の様式と洋風の材料が融合していず、色も不快で第一和風そのものの好みが概念的で、少しも内からの美が見えない。


 歌舞伎というものは江戸で生れ、江戸で栄えたものであって、江戸歌舞伎の芝居小屋というものの持つ味は、実にこん然と歌舞伎と融け合った感じである。如何にもデヤッとして、それでいてどこかあかがぬけている。私としてはコンクリートでいいからやはり、歌舞伎座は思い切って、江戸風の大芝居の形にしてもらい度かった。がそれはそれとして、どうも歌舞伎座の形は美しくない。破風造はふづくりなども概念的な感じがしていやだ。内部も私は好まない。これに比べれば新橋演舞場の方がまだ、下手なライト式ではありながら、素直に西洋風になっているだけでもいやみがなくていい。とも角も、もう少し引きしまった感じがほしいものである。椅子場というものも、もう時代の力で致し方のないものであろうか。まあこんな事はどうでもいい事にしておこう。
 さて話のついでだから少々今日の日本の洋風建築、その他、和製の西洋物について所感を述べさせていただこう。
 今日、丸の内の他にボカ/\と出来る箱に穴を明けた様な、あの不躾ぶしつけな物質的な建築は何という不快な形と色であろう。恐らくアメリカにでもあんな醜い町はないであろう。それに今日、東京その他に出来るへんな四角い橋はあれは何という形であろう。私はたとい貧弱でも一と昔前の新橋や、常磐橋がなつかしい。実に今日は一切が概念的である。がこれをよく考えてみる時、新橋や、常磐橋は素直に西洋の形を真似たからの事で、今日の醜さは、洋風の審美も、日本風の審美もともに持たないわが国民がただ概念的に考えたものを直ちに創作なりと思いちがえたところから生じている。
 長くなると御迷惑と思うから簡単にいえば、今日の日本民族は民族としての内なる美を失った民族なのである。本当に創造することの出来ない、即ち創造すべき内容を奪われた国民なのである。日本民族には民族として、世界に誇るべき趣味と、「内なる美」を持っていた。それは太古より徳川期から明治の初めまで栄えた。しかし、明治になって、西洋と交渉が生じ、物質文明が輸入され、どうしても一切のものが欧化しなくてはならなくなった時、日本人は、その審美をも、西洋から借りて来なくてはならなくなった。看板一つ造るにも、漆はすたれ、ペンキとなり、何を印刷するにも木版では間に合わぬのみか、洋風の意匠にはつりあわす石版となる。しかし、もと/\われ/\は西洋人ではなく、日本の審美こそは持っているけれど、西洋の審美は借りなくては内には生きていない。しかし用いないものは枯れる。こうしている中に日本の審美はその生気を失い、今日ではもう全く枯れてしまった。今日の日本人でたれか、昔の看板やのれんの意匠に匹敵するものを描けるか。しかし借りものをにわかに自分の生れつきのものにする訳には行かぬ。かくて日本は今は全く、内部的に審美を失った国民となったのである。さてこそ、今日、和製の洋品が、どこともなく本当の舶来品とちがうのである。今日の電車の色や又は日用品の装飾、ペーパー、郵便切手の図案、小銭の図案、紙幣、一切これ等のものの色でも、意匠でも、何一つとして西洋のそれに及ぶものはない。どこか鈍く、だるく、すっきりとしない。そこへ行くと、西洋のそれ等は如何いかにも西洋らしくスッキリと、内からにじみ出た民族的の美がある。六十年の昔は日本の銭や小判は、恐らく世界に冠たるの美を持っていたものを。


 私はただいたずらに前に述べたようなことをいっているのではない。わが国貿易の輸出不振の可なり重大な原因がここにあるのではないかということを、誰か気のついている人があるであろうか。あの醜い桃色をして、安っぽい顔をしたセルロイドのキューピーをみる人は、日本の玩具が、世界の市場で不評判なのは、ただ破れ易いからばかりでないことを思いあわせねばなるまい。
 しかし、六十年の年月は、さすがに、近頃日本の或一部の内に、内からなる洋風審美の芽が生えて来た。これは一と昔前の日本婦人の洋装と、今日のそれとを思い比べてみれば、おのずと知ることが出来よう。企業家がこの方面にも目をつけるということは、あながち不必要のことではあるまいと思われる。
 銀座三丁目の角が松屋である。松屋についてはもう別にかかなくてもいいようだ。ここは旧の煙草専売局、その前が奇名一世に高かった大山師の岩谷松平翁の天狗煙草である。今でこそ、松屋位の間口はそう珍しくもなかろうが昔の岩谷の間口というものは、当時にあっては人目を驚かしたものである。かも総赤ぬりで、軒の上に天狗の面とおかめの面とをならべて、其間に「勿驚おどろくなかれ煙草税金たった百万円」とか何とか書いてある。この税金の高が、年々にひどくふえて行ったのを私もよく覚えている。常に赤い著物きもので赤い馬車に乗り、銀座街を乗りまわしていたものである。一時国益新聞というのをやり、二六新聞と張り合って、ひどいけんかをしたものである。代議士になるとて落選した時は、二六が大喜びで、天狗の鼻の折れたのを描き「勿驚落選の親玉」というポンチ絵を出した。
 京橋が架けかえられた時、家の父と松平翁とが渡り初めをしたことを私はよく覚えている。またこんな事もあった。私が軽い頭痛か何かで、頭に氷袋をのせて座っていると、そのそばで家のものが二人「今度は岩谷の天狗も青くなったねえ」とか何とか話していた、私はこの岩谷の天狗面をよく見に行ったものとて、これを聞くと、ひどく感動した、「本当に青くなったかい?」と勢いこんで聞くと、家のものはニヤ/\笑いながら「ええええ青くなりましたとも」という。頭に氷袋をつけたまま私は走って岩谷の店先に行って、それが依然として赤いのをみて非常に憤慨ふんがいして帰って来た。とも角も、松平翁は一種の鬼才を持ったえら物であったのだろうと思われる。
 さえぐさも古く玉屋も古い。玉屋の昔の建物はおとなしい明治味の洋館で、また油絵々具の最初の輸入店の一つとしてわれ/\が忘れられない店である。伊東屋もちょっと古いが、そのわきの松島眼鏡店がまた古い。更に丸八に至っては一層古く、江戸時代からの店と聞く、ここの店は一丁目のつやぶきんの佐々木とともに、銀座の名物として今なお名高い。ここの番頭さんに前田さんという非常な劇通がいて、芝居で分らぬことがあるとこの人に聞きに来るとか、いかにも丸八の番頭さんらしくて面白い。
 書く程どうも長くばかりなってしまう。何しろ銀座の事を書くとなると、思ったより書く事が多くなってしまう。もう予定の紙数の倍になってしまったから、あとは惜しいがざっとかいて筆を止めよう。


 十字屋も古い店で、もとはキリスト教的な色彩のあった店、ここの店窓の一円のわにのおもちゃがあって弟とそれをほしがったものだ。
 二丁目は私の生れたところ、角の菊屋は有名だったが今は銀行の敷地となっている、堺包丁店は十年位の店であろう。もとこの辺には月勝というそば屋や下駄屋、カバン屋などがあった。柴田絨店、米田洋服店、明治屋、海老屋、越後屋、近常、みな昔のままのところに栄えているのは喜ばしい。越後屋の店が近頃陳列風になったのは少し安っぽい。この店の品は誠に上等で、山の手のごくいいところに得意が多い由、そのかわり昔は少々高価であった。私の家はその向い側で今の老主人は私達が、盛んにあばれて屋根に上ったりしているのをみて、ハラ/\して、店の者まで注意してくれたりした人だ。今もって御健勝の由慶福のことである。服部時計店はやはり四丁目でないと板につかない。ここはもと私の家の店と、勧工場のあったところ、私の店が勧工場の一部に移ってから、その跡に久しいこと救世軍の本営があった。英章堂という筆屋も古いが、先だってから締っているのは惜しいことである。東側の角には伊勢幸という洋服屋があり、婦人服を出していたのも珍しく、隣が福田屋という掛物の菓子屋で、よくそこで落がんなどを買ったのもなつかしい。一丁目では大新という天麩羅屋てんぷらやが古い。いま旭屋という花屋になっているところが竹内時計店、そのとなりが大新、それからランプ屋、紀文という瓦せんべ屋となっていたが今は大新しか残っていない。陶雅堂というせと物屋があるが、私も以前陶雅堂と号していたが、この店の名と同じと聞いて、今は塘芽堂又は冬瓜堂と改めた。金田眼鏡店も古く、つやぶきんの佐々木はいう迄もなく古い、毎年七草にはこの店で太神楽があって、みに来るように使がきまってあったもので、毎年七草の夜は佐々木へ行ったものだ。三光堂、鷲印、ともう一軒この処三軒の蓄音機店が集まっているのもなものである。いま東朝館といっているのが旧の金沢亭で、青年時代私はよくここへ出かけた、志賀にいわせると、岸田の知識は金沢亭がもとだそうである。
 玉木商会はそう古くはないが、ここで第二回艸土社の展覧会をし「入場無料入場ない」という御経を発明した古跡である。ポスターに玉木屋と書いて主人から「うちは玉木屋ではない玉木商会です」といってしかられたことがある。
 京橋づめが池田茶舗、この店も古く、昔は店の奥に真黒な茶壺がならんでいて、古風ないい茶店であった。茶を買いに入ると、きっといい煎茶を出してくれた。看板は昔ながらの形をのこしている。
 ふと見れば、京橋のかなたには、相互ビルディングがき然とそびえている。夜はようやく町々をこめて来て、橋の柱の上の灯籠とうろうの火がようやく濃くなって来た。大根河岸のバラックも夜となれば、美しく、何となしにいにしえの東京のおもかげをみせてくれる。ここから先はもう私の領域ではない。これで筆を止めるとしよう。(昭和二年五月四日夜)






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